コロナの第5波がようやく収まりつつあり、緊急事態宣言も解除となった。まだ第6波がやってくることが懸念されているので、これで全てが順調に徐々にでも元に戻っていくかどうかは、未知数であろう。コロナ以前の状態に戻るのは、いったい、いつになるのだろうか。治療薬(飲み薬)もようやく、出来つつあるようであるが、それもワクチン同様、日本でいつ使えるようになるのかは分からない。相変わらず、マスクをつけた日常からは、逃れられそうもないようだ。
そんな中、国内外の出版助成金の申請が重なり、見積書や出版内諾書の作成などに、9月から追われている。いつぞや、ツイッター上で、出版助成金は焼け石に水で、本の値段もたいして下げていないし、出版社の維持費に多少は充填されているが、学術出版業界にとって、助成金は大麻で、超高額商品は覚醒剤、というのを見かけた。超高額商品というのがどの程度かは分からない。しかし、超高額商品ではあっても、「本」という形で残しておきたいものもあるのではないか。
小社にとっても、助成金がないと学術書の刊行が難しいのは確かである。全国の公共図書館、大学図書館などがある程度購入してくれる見込みがあれば(実績があれば)、学術書もそれほど高価格ではなく刊行できるかもしれないし、そうなれば、研究者、院生も研究費などから、さらには一般読者も購入しやすいと思う。けれども、公共図書館、大学図書館の予算、教員の研究費も削られる一方となると、ますます学術書は厳しくなってくる。
図書館の購入費、大学の予算、教員の研究費などなど、結局のところ、一般書店で一般読者に購入してもらう以外は、ほぼ税金で賄ってもらっているということになる。専門性の度合いが高ければ高いほど、そうならざるを得ない。ということは、学術予算が削られれば、削られるほど、いわゆる専門書出版社はやっていけなくなるであろう。そもそも大学の専任教員のポストも削られているので、研究費で購入される数もさらに減っていくことになる。
助成金といっても、いろいろである。公的な(科研とか大学とか、あるいは財団などなど)ものから、著者個人によるもの、あるいは、特定の組織による買上があるもの、さまざまな形がある。自費出版を主に請け負っている出版社(一時期、その倫理性が問題になったこともあるが)もあるだろうし、普通の出版社でもなんらかの助成金を得て刊行している場合もある。本をつくってお金にしていくという点では、代わりがないとも言える。
とはいえ、助成金があればなんでも出せるか、ということはない。自社の傾向に合っているか、また内容が自社の求める水準をクリアしているかなど、各社によってさまざまな基準があるだろう。これは公的助成金であっても同様である。いくら餌をぶら下げられても、出したくないものは出さないのである。とはいえ、巨大な毒まんじゅうを目の前にして、ノーと言えるかどうか。幸か不幸かそうした経験はないが。
一方、近頃では、はじめから電子書籍として刊行するのであれば、アマゾンなどでできるので、出版社から刊行する必要はなくなっている。こちらも、全国に流通するのであるから。個人で本を出すという敷居がかなり低くなっていき、さまざまな形での出版物が増えるのであれば、出版物の多様性もさらに拡がっていくのかも知れない。ただ、出版社というハードルをクリアしていない分、玉石混淆になりがちではあろうが、試し読みなどもついているので、読者も判断できるだろうと思う。
専門書についても、そうした形の出版物が増えてくるのかも知れない。博論ももはや刊行されなくとも、各大学のリポジトリへ登録すればよくなっている。逆に紙の書籍化をするということで、要旨以外は公開しない、ということが認められている。本にすることで、公開を妨げる事態となっているのである。学術研究を無償で広く社会にオープンにしていくという点では、逆行していることになる。科研の出版助成も博論そのままは認めないとなっているぐらいであるから、電子書籍化は、ますます進むと思われる。
そうしてみると、専門書出版社というのは、知の無償化、オープン化の障壁になっていることになる。公的出版助成もまた、しかりであろう。とはいえ「本」という形に拘るのであれば、専門書出版社も、公的出版助成も、必要とされるものである。
もはや、専門書出版社ばかりでなく、すべての出版社が、過渡的な存在にすぎなくなっているのだろう。小説家は、みずからキンドルをはじめとする電子書籍で出版、販売し、その売上で食べていく。全ての本がそういう形になっていくとすれば、出版社は必要とされなくなるだろう。せいぜい編集業務が必要とされるか、どうか。
さて、我らはどうするか。
出版協理事 石田俊二(三元社)
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