世の中のタガが外れてしまった。
そんな一年であったように思う。もう数年前からおかしくなっていたのが、ここへきて歯止めがなくなってしまったかのようだ。
ヨーロッパでは普仏戦争(1870~1871年)から40年以上大規模な長期戦がなかった。ヨーロッパ以外では6年後の露土戦争から絶えることなく戦乱は続いていたが。この間「過去の戦争の記憶は薄れ、戦争への危機感も遠のいた。市民層の青年のあいだには、ロマンチックな戦争像を抱き、戦争を平凡な日常生活からの脱出の機会とみなす傾向すら現れた。」(木村靖二『第一次世界大戦』ちくま新書、42頁)という。そして第一次世界大戦(1914~1918年)が起きたとき、「参戦各国では、国民の参戦反対や徴兵逃れもまたほとんどなかった。それには、参戦国すべてで戦争は防衛戦であると宣言され、大部分の国民がそれを信じたこと、さらには一九世紀後半からの義務教育・義務兵役制の普及による教化や、経済発展による生活水準向上によって、国民としてのアイデンティティがある程度浸透したこと、つまり「国民化」が進んだことの結果でもあった。」(同上、56頁)。そして「打倒すべき敵イメージはもはや敵国政府や軍だけでなく、敵国民とその言語、さらには文化一般へと拡大された。戦争は開戦直後から、否応なく国民の戦争になった。」(同上、57頁)。
敗戦から75年。日本はこの間、戦場になることもなく、直接的に参戦することもなく「平和な時代」を送ってきた。世界を見渡せば、戦争、紛争、内戦、テロが途切れることがないにもかかわらず。「戦争は防衛戦であると宣言」されたように、現在でも、「防衛戦」とうたわれている。日本国内でも、近年のヘイト・スピーチ、日常生活の中での穏やかな排外主義的傾向からは、それは「その言語、さらには文化一般」にまで拡大している。さらに、「国家」の役に立っていると見なされている「上級国民」あるいは役に立っていない「下級国民」といった言葉が平然と語られ、そうしたレッテルが通用するようになっている。しかもそれと並行するように経済的な格差もますます増している。それらがどのように関連しているのかは、分からないが、していないわけではないだろう。
第一次世界大戦の開戦時「「開戦時の愛国的高揚」はなかったわけではないが、その多くは新聞などの戦意高揚記事や、知識人・作家などの愛国的言論活動によって増幅されたものであった。」(同上、56頁)という。現在の日本のマス・メディアはどうだろうか。
「タガが外れ」ていても、日常生活は変わらずに過ぎていくように見える。しかし、大深度地下工事であれば影響はないといいながら、地表が突然陥没する事態となった。原発の安全神話は崩壊したにもかかわらず、しかもその処理もままならないまま再稼働に向かっている。国会での答弁に責任さえ持たない。
「タガが外れた」なかで、「タガを締め直す」のは誰あるいは何なんだろうか。上からの「タガの締め直し」では、75年間の「平和の時代」を無にすることになりかねないことは、自明であろう。
そもそも「タガを締め直す」ことが、出来るのだろうか。「タガを締め直す」ための想像力、構想力が「国民」にあるのだろうか。ないのであれば、どのようにして、そうした想像力や構想力を生み出すことが出来るのだろうか。「信じたいためにうたがいつづける」(岡林信康「自由への長い旅」)ことが、いつまで出来るのだろうか。そんな想像力や構想力を生み出すきっかけになるような本を出し続けたいと思っている。
この年末にかけてのコロナのさらなる拡大は、終息の見通しが立たない気配だ。欧米ではワクチンの接種が始まったが、すべての人にいきわたるのはまだまだ先のようである。日本はさらに遅れるようで、厚生省のHPでは、「2021年春頃より接種を開始できる可能性」がある、となっている。
「タガが外れた」なかで、どのような形で、「国民」が納得できるような接種の仕方ができるのだろうか。
ともあれ、2021年が良い年となることを祈ってやまない。
会員社並びにすべての人々のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。
出版協理事 石田俊二(三元社)
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